2013年3月15日 

 民主と人権第105号

105−1
 「さよなら原発3・10関西2万人行動」

大阪市北区中之島で3月10日、40を超える市民団体でつくる実行委員会がよびかけて「さよなら原発3・10関西2万人行動」が開かれました。途中から降り出した強い雨をつき、「原発なくせ」の一点で立場を越えて共同し、かけつけた1万1000人が中之島女神像エリア、剣崎公園エリア、水上ステージ(若者・音楽広場)などで、さよなら原発フェス、集会、宣伝、デモ行進をくりひろげました。
 「NO NUKES(原発いらない)」と書かれたバッジをたくさんかばんに付けたり、手作りのアニメキャラクターのきぐるみを着たり、風船やヒマワリを振ったり。思い思いのアピール方法で押し寄せた人、人、人の波―。
 剣崎公園の集会で主催者あいさつした金谷邦雄さん(原発ゼロの会・大阪世話人代表)は「福島原発事故がもたらした被害は、日本が経験したことのないほど異質なもの。にもかかわらず、政府はアメリカの後押しを受け、原発の新設や輸出を使用としている」と批判。「“第二の福島”をおこしてはいけない。力強く原発ゼロの運動をすすめていきましょう」と訴えました。
 3分アピールでは、大阪労連の川辺和宏議長、新日本婦人の会府本部の川本幹子会長、金曜日の関電前デモを呼びかける「ツイット・ノーニュークス大阪」、京都の「バイバイ原発京都」の代表らが報告しました。
 集会決議を読み上げると、何度も「そうだ」の声がわきあがり、拍手で確認しました。
 西梅田、関電、御堂筋コースに分かれてデモ行進をおこないました。

105−2
  内藤 義道さんの残した遺産 
      (教師・内藤義道さんを偲んで)
       国民融合全国会議幹事 国広 悦正

 昨年10月12日亡くなられた内藤義道さん(元日本共産党大阪府議会議員で国民融合全国会議代表幹事として奮闘してこられた)と、八尾市で教師としてともに「同和教育」をすすめ、部落問題の解決と向きあってこられた国広悦正さんより手記「内藤義道さんの残した遺産」(教師・内藤義道さんを偲んで)が寄せられました。

1、ぼくはやるべきことはやってきた

 6月、検査入院の病室に伺ったとき、「覚悟は出来ている。振り返ってみると、ぼくはやるべきことはやってきた。教師の時代も、府会議員の頃も、一貫して部落問題の解決と向き合ってきた。部落問題が基本的に解決して、国民融合全国会議(内藤さんは代表幹事の一人)もその役割を閉じる頃にもなった。感慨深いね。『同和教育』も終わらせる時代になったんだからね。実質、もう終わったね・・・。時代は大きく変わったよ。」
 内藤さんは歩んできた83年の人生を振り返りながら「ぼくは、日本共産党と早くから出会えて幸せだった・・・。」と。少し痩せた身体でかみしめるように話す。話は2時間にもなった。長居をした私を病院の階下まで送ってくれた。
 内藤さんは府会議員として、黒田革新府政を支え、大阪府興信所条例や人権条例制定反対の論陣をはり、「解同」の横暴と闘い続けたことは知られているが、教育者として「国民教育運動」に足跡を残されたことはあまり知られていない。
ちょうど50年前、私が八尾中学校に勤めはじめた時の学年主任でもあり同僚でもあったので、「教師・内藤義道」の足跡をたどり、50年間のご指導とご交誼に感謝すると共に「ご苦労様でした」と言いたい。

2、「八尾中問題」の組織者として
(1)生活の実態を教材に

 1961年、内藤さんの勤めていた八尾中学校は当時、50余名の長欠・不就学生をかかえる一方で、越境入学生を受け入れる進学有名校という2つの顔を持っていた。就職組の多くをしめる「未解放部落」(注1)の子どもは放置されていた。
 秋に関西地方を襲った第二室戸台風は古い木造校舎に被害をもたらし、雨漏りのする教室、窓枠ごとなくなった寒い教室のなかで進学のための教育が強められていた。このような中で就職組の子どもたちは差別教育に対する不満を一段と強め、授業中に騒いだり、教師に反抗したり、腰板やガラスを割るなどの破壊行為を増加させた。こうした時、内藤学級の14名の女生徒が「男子が騒いで勉強が出来ない」と登校拒否をするという事件が起こった。これが「八尾中問題」の発端である。
 女生徒は3時間目から登校し、担任を含め話し合いが放課後まで続いた。内藤さんはこの「事件」をすぐさま「教材化」する対応を取った。つごう三日間にわたって教師集団と生徒と討論が続けられた。
 就職組といわれた多くの生徒は生活の貧しさ、仕事に追われている親の姿,家庭で勉強も出来ない状況、中には貧しく内職の手伝いで小学校もまともに行けなかった生徒もいた。せめて中学は卒業して「給料」の貰える仕事につきたいと訴えた子もいた。だからこそ、先生(学校)を頼りにしている。僕らにも希望の持てる教育をして欲しいと訴えた。この生活の現実からにじみ出る生徒の教育への願いに教師は言葉がなかった。
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(2)「すべての生徒に学力と生きる望みを持たせる学校」に変革

 教師は過去の差別的な教育について点検を進め、すべての子どもに生きる望みを持たせる教育に取り組む自己批判と決意を明らかにした。これが同和教育(注2)の始まりであり、八尾が同和教育の発祥地の一つといわれる所以でもある。
 これを契機に受験中心の教育からすべての子どもに中学生としての学力をつける教育へと転換させていった。これがいわゆる「八尾中問題」であり、部落問題研究所刊「教育革命」として収録されている。
 内藤さんは手記「わたしの歩んできた道」(雑誌「人権と部落問題」2010年4月〜11年3月号)に次のように書いている。
 「『八尾中問題』は1961年秋から冬にかけて起こった。『授業妨害』『器物損壊』などという否定的・破壊的行為を現象としながらも、本質的には進学準備教育体制に対する『進学体制』からはみ出ている『未解放部落出身生徒』(注1)の抗議であった。三年生との話し合いの中で『・・・俺ら、静かに授業を受けることが常識だぐらいは分かっている。しかし、授業の内容は、俺たちにはさっぱり分からん。何にも分からんのに六時間も座っているのは、本当にしんどいのやぞ。それは、お前らには分からへんわ。』と主張した。この生徒の発言はそれまで『授業妨害をやめよ』『反省すべきだ』と主張していた生徒(この主張は当然の主張だが・・)に対しても強い影響を与えていった。完全に分裂していたと思われる生徒集団の矛盾と対立は『一人ひとりを大切にする教育内容と体制』を求める要求によって統一されていく。その後11月15日からの、三日間にわたる三年生の教師集団との話し合いは厳しいものであったが、話し合いの秩序は保たれていた。話し合いの秩序を守るための役割は『授業妨害』の先頭にいた生徒であったことも、私には教訓的であった。私たちは一人ひとり生徒の前で、これまでの教育に対する自己批判と今後の決意を率直に語った。生徒は拍手でこれに応えた。『八尾中問題』については、当時、教育界に大きな影響を与えていた。私自身も日教組教研福井集会、鹿児島集会で報告したし、また、第1回東海・近畿教育研究サークル協議会の最終日に小川太郎先生(神戸大教授・教育学)から電報で呼び出されて特別報告を行ったこともある。」と書いている。

3、ひとり一人を大切にする教育の拡がり
(1)生活と教育の結合の原則を提起

 梅田修教授(滋賀大学)(部落問題研究所・「部落問題の解決過程の研究」2巻・2011年発行)によれば、小川太郎は「八尾中事件」にふれながら「差別と競争と支配の教育体制」のもとでは、子どもの反抗は必然的な教育現象である」と述べたうえで、「生活と教育の結合」の原則を最も鋭い形で示す同和教育は国民教育の民主主義的あり方を問うていく質を持っている」と指摘している事を紹介している。このことを実証したのが内藤さんと大西忠治氏(注3)らとの論争であった。内藤さんは集団のあるべき姿と集団の質の問題を提起した。論争は長くつづき学者も含め生活指導論を二分するほどであった。
 当時、小川教授は「日本の教育学と部落問題」と題して次のような講演をしている。
 「日本では昭和初期に教育科学研究会が結成されたが当時の反動化の中ですぐつぶれ、敗戦後はアメリカの教育学に追従する傾向が顕著になった。一部でソビエト教育学から学ぶ傾向が生まれたが、いずれの場合も部落問題に関わる教育課
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題は入っていなかった。「子どものいない教育学」として批判もあった。この中で、最近うれしい傾向が出てきた。「八尾中学校事件」として内藤義道先生によって出された報告である。
 比叡山を会場にして開催された全国生活指導研究会(※全生研での論争のこと・筆者)で生活指導の方法に一定の方向を与えた。 教科研全国集会の中でも「同和教育から何を学ぶか」というテーマが出て来ていることにも現れている。
 内藤報告には@差別的な人材開発教育・人的能力開発政策が差別的なものであることをしめす重大な観点がある。A不就学・長欠の問題・教育の平等の原則が破壊されていることは資本主義社会の根本的な差別性を問題とする提起である。B非行の問題は多くの場合、不適応の問題としがちであるが、学校や社会から非人間的なとりあつかいを受け、目的を失っている現状の中で起こっている現象であり、これは抵抗であり、抗議である。その中でも、子どもの民主的な可能性があり、現状を変革するエネルギーがあることを提起している。ここには新しい児童観・生徒観が示されている。」
(1963年・第2回部落問題研究者会議・国広のメモノートより)

(2)地域の願いに応える民主教育を

 前述の内藤さんの「手記」には次のような記述がある。
 「・・・地域からの『八尾中学校』に対する批判も厳しいものがあった。」 私たちは各校区(四小学校)での父母集会や懇談会に幾度となく出席した。学校のおかれている現状と本質についての説明、今後の努力の方向などについて訴えをくり返した。1月末になって、北山本地域の父母を中心として各校区を横断的につないだ「八尾中をよくする会」がつくられた。
 「今の八尾中には父母から見ても充分に批判されねばならない欠点もある。しかし、八尾中の教育を父母の力とも結びながらつくりたいと考えている教師を励ますことが、今、もっとも大切なことではないか。」という父母の自主的な組織であった。
 「八尾中をよくする会」の父母は、「部落解放同盟」(注4)とも話し合い、3月10日には30項目にのぼる要求書『教育諸条件の整備・学校における教育指導・生徒指導の民主的改善』を学校と教育委員会に提出した。

(3)教育における統一戦線を求めて

 内藤さんは「八尾中問題」のなかに国民的融合の萌芽が含まれていると指摘する。 先に述べた「八尾中を良くする会」が「旧同和地区」内外で対話をすすめ、要求をまとめ行政や学校に提出するという活動のことである。これは、地域に民主主義を定着させ、共通の要求で統一していく運動を通して地域にある垣根を取り去っていく国民融合の姿であり、統一戦線の思想でもある。
 もう一つは、生徒集団の矛盾と対立は『一人ひとりを大切にする教育内容と体制』を求める要求によって統一されて、生徒集団が対立ではなく要求で統一されていく過程である。

(4)願いを実現する集団作り

 内藤さんたちを中心とする教師集団は「教育を受ける権利を守れ」という叫びを受け止めて、校内体制の点検を進め、授業内容の改善や七時間目に設定した「助け合い学習」(共同学習の時間)の展開などかずかずのとりくみを進めていった。
 この助け合い学習では一日の授業の復習と生徒どうしの教え合いが一斉におこなわれ、教師は全員教室を巡回してこれに協力した。
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「さっぱり解らん授業」と言った低学力・落ちこぼれという状況を生徒自身が克服していく活動である。
 生徒の自主的な活動を保証し、学級活動・学年生徒会・学校生徒会活動が盛んになった。なかでも自主的に「金曜日の会」(非行をなくする会)が学年を横断的につくられ、毎週、熱心な討論が起こった。これは子どもが本来持っている正義心の組織化であり、学校を「民主的で正義が通る」集団として、いじめや非行を許さない自主的な活動であった。八尾中は1500名以上の生徒が通う大規模校であり、当然のことながら紆余曲折はあったが成果をあげていった。また、当時、50余名近くの長欠生がいたが、内藤さんは「夜間学級」の開設責任者として各家庭を訪問し、11名を卒業させた。以後長欠生を皆無にした。「夜間学級」は現在の八尾夜間中学校の前身である。

4、新しい児童観・生徒観の提起

 この「八尾中事件」はぐうぜん起こったのではない。しかるべくして起こった。この年、戦後はじめての全国統一学力テストが強行され、差別と競争の激化・進学中心の教育の中で、傷つけられ生きる望みを奪われた「生徒」の放置、そのような状況の中で起こった。
 内藤さんは、現在、このような「事件」は全国いたるところで起こっていると指摘する。
 全国に広がっている「低学力・登校拒否・落ちこぼれ・引きこもり・無気力・いじめ・非行」という教育困難な課題は子どもの訴えであり、叫びであり、抵抗であると受け止めるべきである。人間の尊厳を冒涜する教育支配のなかで生み出されたもので、個人の性格や責任の問題ではない.ここには新しい児童観・生徒観がある。
 「八尾中事件」について批判として出された「非行容認」論、「非行は宝」論についても触れておかなくてはならない。内藤さんも小川さんもそんなことは一言も言っていない。
 小川さんは「要求は必ずしも八尾中のような爆発的に出てくるとは限らない。それはむしろ例外的な不幸な場合である」と記述している。(梅田さんの報告)
 50年後の今日の「いじめや非行、ひきこもり等」教育困難の課題も差別と競争と支配の教育体制のなかでの必然的な教育現象であると示唆している。
「非行は宝」論は、変質した「解同」いいなりの解放教育推進派からの攻撃に利用されて増幅したことだけは確かである。

5、「解同」の圧力で幽閉された内藤さん
 「矢田文書は差別ではない」と主張する八尾市教委指導主事の内藤さんにも「解同」から圧力がかかってきた。遂に閉じ込められた。(注5)
 「八尾市同和教育研究室」は教育センター3階の屋根裏にあった。体育館の舞台裏のマットや跳び箱の奥にある小さなハシゴをのぼって、更に迷路をたどった所に西日の照りつける3畳ほどの細長い物置がある。ここが内藤さんを幽閉するために新設された「研究室」。私は当時、八尾教組の役員でもあったので相談に良く出かけた。
 先述の「手記」には次のように書かれている。
 「・・・相変わらず、朝9時に出勤して夕方5時まで本を読む以外することが無い生活を送っていた。その一年間で、「研究室」を訪ねてきたのは、たった一人だけであった。これは「流人」の生活に近いと苦笑するしかなかった。」と。
 「ここを尋ねてくれた者は君を除いて誰もいない。
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だいいち、ここに来る通路がわからないし、僕がここにいることも知らない。仕事はいっさい無い。おかげで社会科学や教育関係の基礎書物はしっかり勉強できた二年間だった」「日本共産党関係の書物も読破した」と内藤さんはふりかえる。
 いつもキチンとした身なりの内藤さんにしては珍しく夏に訪ねたときはいつも下着一枚のステテコ姿。「夏は西日の直撃をうけクーラーもなく、扇風機の生ぬるい風に当たりながらいるので、ズボンやシャツは汗でびしょ濡れ。帰りに着れなくなるから・・」と笑っていたのが忘れられない。彼は幽閉された逆境を見事に利用して、その後の議員活動の基礎を培ったといえる。この数年後には日本共産党の府会議員になった。

6、教育反動・「解放教育」の終焉

 先に紹介した梅田修さんの論文に面白いことが書かれている。
 「解放教育」という特異な理論と実践は行き詰まりのたびに変質し、「解放の学力論」から「新学力論」に接近し「人権教育」へと転換。さらには「旧同和地区」(注6)生徒の「学力保障」が学習塾化におちいってしまった。ついに解同系学者の田中欣和(関大・解放教育研究所)は解放教育再考論をとなえ、「初心に還れ」と主張し始めているという意味の記述がされている。初心とは「能力主義的教育への痛烈な抵抗を示した『八尾中事件』のことである」と梅田さんは指摘する。
 かくして、「解放教育論」は崩壊し、声明「財団法人解放教育研究所は、2012年3月31日をもって、解散しました。ただいま清算人手続き中です。」を出すにいたった。

7、「生活と教育の結合」の原則は不滅に輝く。

 部落問題解決という壮大な歴史的展開の中で、教育と生活の結合を提起した内藤さんたちの実践が国民教育運動の中で光を放ち続けている。当時、部落差別の実態に足場を置いた同和教育運動は当然のことながら、その生活と教育的要求を結合させるという必然性と原則性を持っていた。そして、それは民主主義の質を問うものでもあった。そこには誰も否定できない現実があり、説得力があり、自由と民主主義を背景にした変革を伴う要求があった。
 では、今は無くなったかといえばそうではない。部落問題は解決し、部落差別は無くなったが、格差と貧困、差別と競争の政策から生じる深刻な教育課題がある。なぜ、光を放ち続けるかはこのような今日の教育課題と深く関わっている教訓をもっているからに他ならない。
 大阪では、一層厳しく格差社会が進行するなかで、橋下大阪市長と「維新の会」を中心とする勢力を先兵として、教育と教師を敵視しながら「教育破壊政策」が強行されている。「弱肉強食」の新自由主義政策の強行、「差別と競争」の能力主義の中で起こっている「低学力・登校拒否・落ちこぼれ・引きこもり・無気力・いじめ・非行」という教育困難の急増。また、最近は痛ましい生徒の自殺問題・暴力行為・体罰問題などもある。これらはすべて教育現象であり、まさに子どもの抵抗であり、抗議の姿でもある。
 そこには子どもの孤立があり、支え合う(連帯をうむ)集団がない。しかも、これらの状況を心的・内的要因のみに収斂する教育傾向や「自己責任論」で切りすてる政策と思想の横行がある。また、教育現場には、評価制度による教師の分断・多忙化と物言わぬ教師作りの際限なき教育介入がある。この状況の打開が教師たちや保護者や地域住民及び民主勢力に求められて
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いるのが今日の社会状況であり教育界の現状である。
 このような中で、内藤さんたちの実践は、「すべての子どもを生活から切り離して捉えない。子どもは生活から離れて存在しない。子どもの諸々の否定的現象も教育の差別的構造と切り離して捉えない。一人ひとりの子どもの生活と結びついた教育的願いを基礎にし、集団の組織化と闘いなくして問題は解決しない」という教訓を示している。
 一人ひとりの子どもの健全育成をめざし地域ぐるみですすめる民主的な教育運動は重要な闘いである。その中で教師も地域住民も自らを変革していく。

8、内藤さんが最後に訴えたこと

 (手記より)「今日の政治的・経済的諸条件の下での「格差」を拡大し「貧困」を蓄積させてきた社会的構造を打ち破る重要な課題がつきつけられているとき、生徒はそのような環境で育っているのだから、教育的矛盾も深刻化する必然性がそこにはある。
 生徒に未来に生きる展望を確かなものとし、学ぶ喜びを与えていくためには「子どもは全生活のなかで発達する」という事実・生活と教育の結合の原則は大切にされなければならない今日の課題でもある。」
 教育や「学校」のなかに現れている困難な否定的現象を「自己責任論」で切りすて「人間の尊厳を冒涜する教育支配に対して生徒の諸要求(否定的現象を伴ってあらわれる場合も含めて)正しく組織して「孤立」ではなく「連帯」、「分裂」ではなく「統一」を進めていく過程のなかで生徒は(教師もふくめて)みずからを変革していく。それが民主主義教育の土台を形成すると言う意味でも重要な教訓を残していると思っている。」と。
 今後、差別と競争と支配の教育体制がつづく限り、子どもと教育を守る教育労働者の指針としての意義を持ち続けるであろう。橋下教育破壊政策の犠牲者は子どもたちである。これとどう闘うか。答えの一つがここにある。

(注1)(注2)(注4)(注6)
 部落問題とは封建的身分の残滓を主要因として、一定の地域住民が社会的不平等の状態に置かれていた問題。その地域を部落又は未解放部落と呼んだ。国策として同和対策が進み、対象指定地区(同和地区)住民の努力や社会構造の変化等とあいまって社会的低位な状態も解消し、関係法も失効した(2002年3月)。従って現在は法的にも実態としても同和地区はない。旧同和地区という呼称も死語となった。
 この社会的不平等の解消に向けた当初の教育運動が同和教育運動。憲法と民主主義思想の広がりを基礎としたが1970年代以降、解放同盟の一部の変質にともなう解放教育の出現・行政の介入等で解決を困難にした。

(注3)
 大西忠治氏は当時、生活指導における「集団主義教育」の香川方式(核づくり・班づくり・討議づくり)といわれる理論的・実践的方向を提示していた。

(注5)
 矢田事件 
 1969年3月「大阪市教組の支部役員選挙で『進学や同和を口実に労働強化がおこなわれているが、上からのおしつけではだめだ』という趣旨のあいさつ状を差別文書と断定、解同は教諭ら15名の糾弾をはじめる」
 「反共・部落排外主義の『朝田理論』が解同の運動理論とされ、『糾弾権』『部落民以外は差別者』『部落にとつて不利益は一切差別』と宣伝」 

105−8
 福島県いわき市へ
 元のふるさとに戻してほしい

 3月3日・4日の両日、医療生協かわち野の一員として、福島県いわき市の浜通り医療生協への研修に参加、現地視察、仮設住宅住民との懇談をしました。
 3日は、浜通り医療生協の伊東達也理事長(原発問題住民運動全国連絡センター筆頭代表委員)から「福島原発事故の惨状を語りながら、原発ゼロをめざす運動のさらなる前進を」と題して、東日本大震災当日から今日まで、浜通り医療生協の果たした役割といわき市での活動を聞きました。 その後、町の大部分が福島第一原発から20キロ圏内にあり全住民が避難した楢葉町(昨年8月10日に「警戒区域」から「避難指示解除準備区域」となり出入りができるようになる「宿泊は禁止」)、福島第一原発事故処理の前戦基地となっている「Jビレッジ」、卒業式の姿を残したまま捨てられた楢葉町北小学校、常磐線竜田駅(開通の見込みは立っていない)、津波被災地のいわき市久ノ浜旧商店街、除洗物の入った袋が道路や畑に置かれている所などをバスで見て回りました。
 4日は福島第一原発がある大熊町から避難されている仮設住宅を訪問し住民のみなさんと懇談しました。
 懇談では、「現在の仮設住宅が5カ所目」、「廃炉まで30〜40年とされており、仮設は長くて3年、東電には賠償はいらないから元のふるさとに戻してほしい」と涙ながらに話されました。
 政府と東電の無責任さにあらためて怒りを覚えました。 (藤本博)

 「同和」を意識させる教育の廃止を
         大阪市教委交渉

 民権連大阪市協は、3月8日、市教委交渉をおこないました。
 交渉はまず、谷口委員長から、市内12地区をみてまわって、ほとんどの地域が周辺地域と変わらなくなっている。もう「同和」とかそうでないとかいう必要のない時代になっている。このことをふまえて今後の方向を考えてほしいと要望。
 そのうえで、民権連から、「差別を教材にしている」、「まだ差別がある」、「地域がある」というなど各学校の教育の実態を説明、こうしたことは、かえって「同和」を意識させるものになり、解決を妨げる。是正するようにと要望しました。
 市教委は、「ベースになる認識は委員長が言われたとおり、実態は変わった。人権教育といったときに過去の流れをくむものではない」と回答。
 同和教育基本方針の廃止の要求に対しては、「歴史的な文書。当時を反映した文書。民権連の指摘は受けとめさせていただく」と回答しました。

 内藤義道さんを偲ぶ会
日 時 4月7日(日)午後1時から
会 場 たかつガーデン8階(大阪府教育会館)
会 費 6000円(予定)

《連絡先》
内藤義道さんを偲ぶ会実行委員会事務局
  電話072(991)6115